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今日の池袋で本当にあった話(嘘)

高校を卒業した後、役者を目指そうと思った。中学と高校で演劇部に入っていたのは、そのためだった。
演技が好きとういうよりも、人から注目されることに喜びを感じていた。
だからあまり練習をするタイプではなかった。演劇部では、主演を演じたことは一度も無かった。

高校を卒業したらすぐに、札幌を出て東京へ行こうと思っていた。アルバイトをしながら劇団に入ろうと思っていた。
2年生の冬、進路面談の場で担任にそれを伝えたところ、とても居所の悪そうな顔をしていた。
「夢を追うことは悪いことではないと思うけど…」
続く言葉を聞く気は無かった。わかっていた。私は決して演技が上手くもなければ、舞台映えする人間ではなかった。担任も、西垣さんからそう言われたなら、もう少し良い反応をしていたのかもしれない。
西垣さんを初めて見たのは、中学生3年生の頃だった。
市内の中学校演劇部が一堂に会する大会があった。西垣さんは公立中学の演劇部から出ていた。脚本は、恐らく顧問の先生が書いたのだと思う。とても退屈な劇だった。
戦前戦中に製糸工場で働く女工の青春を描きたいようだった。上官との淡い恋、戦火が分かつ二人。いつか必ず帰ってくると言って戦地に赴いた彼の死。戦争や災害など、個人の力で如何ともしがたい状況に巻き込まれていく人間の様を見るというのは、演劇の脚本としてはあまりにありきたりでつまらなかった。
そんな退屈な劇のなかで、唯一輝いていたのが西垣さんだった。演技力は最低ラインといったところだったが、所作のひとつひとつに鬼気迫るものがあった。
西垣さんが上官の死を聞いて舞台上で一人泣き崩れたとき、保護者や他校の生徒から成る観客のほとんどが泣いていた。私は泣かなかった。ただただ驚いていた。

高校生になり、西垣さんは半ばスカウトのような形で、中高一貫である私達の高校へ編入してきた。編入してすぐ、彼女は私達の演劇部の看板女優となった。
私は、自分と西垣さんの何が違うのかを考えた。
容姿はたしかに西垣さんの方が綺麗だった。けれど、私も悪いわけではないと思った。目は少し小さいけど、鼻立ちはすらっとしていた。化粧のやり方によっては、勝てる見込みがあると思った。
演技力は、さほど変わらないと思っていた。少なくとも中学生のあの頃は私のほうが上手だった。私が彼女の演劇部に在籍していたなら、私が主演になれたかもしれなかった。
けれど、高校生の間にだいぶ差をつけられてしまった。1年生から舞台に出続けた彼女と、2年生になってからようやくまともな台詞を与えられた私とでは、文字通り場数が違っていた。

彼女は普通に大学へ進学するという。芸術系の大学でも専門学校でもなく、札幌の私立大学の法学部に進学するのだそうだ。卒業後は、母方の実家があり彼女自身も小学生まで住んでいた旭川市の公務員になりたいのだと、部員と話しているのを聞いた。
私は怒っていた。彼女が演劇をやらないことに怒っていた。馬鹿にされているのだと思った。「私がその道を諦めるのに、なんで貴方がしがみついているの?」と言われている気がした。ふざけるな、お前に何が分かるのだと彼女の頬を心の中で叩いた。

担任に役者を目指すことを暗に反対されてから、私はそれを言葉にするのを躊躇った。
担任から親に伝わりそうになったが、恥ずかしくなったので止めてもらった。東京の大学へ行きたいとは言ったものの、役者を目指したいとは言えなかった。
演劇系の学部がある東京の大学をいくつか受験した。けれど、演劇系の学部は受験しなかった。
入学試験で演技を見られることにとても抵抗を感じていた。舞台の上はまだいい。私はほとんど客を見ていない。けれど試験の場では否が応でも目に入ってしまう。彼らの視線に耐えきれる自信がなかった。
第一志望の大学には落ちてしまった。唯一受かった大学は町田というところにあった。ほんの少しだけ、がっかりした。私は、合格した学部が冠する「リベラルアーツ」という言葉の意味を、よく知らなかった。

大学に入学して、演劇サークルに入った。新歓パーティーの自己紹介で、出身高校を言った。2,3人の先輩が「ほう」という表情をした。
その内の一人の先輩が、一昨年の全国大会で優秀賞だった私達の舞台のタイトルを言った。「あの主演の子、凄かったよね」と言われたので、「そうなんですよ」と微笑んだ。

私はアルバイトをしなければならなかった。いくらか実家から仕送りを貰っていたが、こちらでは家賃の半分にしかならなかった。学費は払ってもらっていたので、仕送りが少ないことに文句を言うことはできなかった。
サークルの時間を大切にしたいとは思っていたので、あまりアルバイトに時間を割きたくはなかった。元々休みの日でも、サークル棟の練習部屋に空きが出て急に稽古が入ることもあったので、決まった予定でアルバイトを入れるのも嫌だった。
なので派遣スタッフに登録した。WEBサイトから必要事項を記入すると、すぐに電話がかかってきた。どういう職種を希望しているか聞かれたので、「パソコンはそんなに触れないので事務系のお仕事は難しいかもしれません」と言った。承知いたしましたと言いながらキーボードを叩く音が電話の向こうから聞こえた。若いくせに使えない奴だなと思われたかもしれない。
その電話で、すぐに3つ仕事を紹介された。


3月の三連休前の水曜日。派遣会社の担当営業から電話がかかってきた。
「すいません、大変申し訳無いんですが、月曜日に家電量販店でのお仕事って可能でしょうか…」
恐縮しきりの声色だった。
「元々休みでしたし、他に予定もないので大丈夫ですよ」
と答えると、ぱあっと声が明るくなった。その営業は20代半ばの女性だった。多分、上司にもお客さんにも好かれるタイプの人だった。
営業は、量販店が急遽キャンペーンを打つことになり人手が足りなくなったこと、その量販店は営業の担当エリアではないが、仲の良い先輩が困っていたので何とかしてあげたかったことを伝えてきた。その話を聞いた私の表情が緩んでいることを少しでも相手に伝えようと、「そうなんですね」と過剰に微笑みながら言った。
その後営業は、
「これまでレジのサポート業務が多かったと思うんですが、今回はプリンターのマイクコンパニオンのお仕事なんですよ」
と後付けしてきた。
「演劇をやってらしたんですよね?だから大丈夫かなあと思ってます!」

その日は15時からの勤務だった。量販店でのコンパニオン業務だと10時から18時までの勤務というのが一般的らしいが、私は15時から交代で入ることとなっていた。
淵野辺から池袋までは電車で一時間以上かかった。けど、量販店の仕事は通勤費も支給されるし、時給も高かったのであまり嫌な気持ちはなかった。
私と交代する三島さんは、マイクコンパニオンの経験が長い人だった。派遣会社としても三島さんにフルタイムで入って欲しかったようだが、急な話だったためどうしても都合がつけられなかったらしい。
現場に到着して簡単に挨拶を済ませた後、私は三島さんにこの後の予定を聞いた。
「義理の両親が東京に遊びに来ててね。今日、山形の方へ帰るからお見送りしないといけなくて。今は、お二人で東京観光されてらっしゃるから大丈夫なんだけどね」

三島さんからクリアファイルに入った資料を渡された。資料には、私が言うべき台詞と手振りや目配せをする動きのタイミングについて簡単に書かれていた。台本だった。
その資料は全く使われた形跡がなかった。
「まあ一回読んじゃえばね、だいたいどこも同じような言い回しだし」
資料によると私はこれから、家庭用プリンターを購入すると最大で3000円のキャッシュバックがあるキャンペーンの告知をするらしい。
三島さんと話をしていると、後ろから突然声がした。
「今日はよろしくお願いします」
量販店の社員だった。伸びたツーブロックを無造作にセットしていた。あまり愛想はよくなかった。愛想の悪さは、私に三島さんのようなキャリアがないから感じたというわけでもなく、三島さんに対しても向けられていたような気がした。
手に持った資料に目を向けた。プリンターの型名は、DZ-LP8001、DZ-LP8004、DZ-LP9001。これらのプリンターを購入すると、2000円のキャッシュバック。それと併せて2I-MMというインクパックを購入すると2500円、同じインクパックをもう一個買うと3000円のキャッシュバックになる。流れはわかったが型名がイマイチ覚えられない。なぜプリンターの型番を8001から順に繰り上がってくれないのだろうか。
悶々としていると社員の視線を感じた。
「実際に話す時は、資料を手に持つのやめてもらっていいですか」

三島さんが帰った。私はマイクを持って持ち場へ着いた。社員は少し離れたインク売り場から私とその他のコンパニオンを見ていた。
私には2つの問題があった。一つは型名が覚えられないということ。もう一つは、持ち場へ着いて以来、一度も客の顔を見れていないことだった。
ここは、舞台ではなかった。私と客が、同じ平面に位置していた。私は、客の世界の中で解釈されてしまう。
私はこれから家庭用プリンターの型名を連呼しなければならなかった。しかし、そんな存在は普通この世に存在しない。この家電量販店という、極めて限定的な空間でのみ許容された存在でしかなかった。
ミュージカルでさえ、「なぜ突然歌い出すのかわからない」と言われしまうのだ。ミュージカルにおける歌の存在さえ、観ている側は自分の世界で解釈しようとする。では家電量販店で家庭用プリンターの型名を連呼する存在を、いったいどう解釈するのだろうか。私には想像もつかなかった。
正確には、私の目的は家庭用プリンターの型名を連呼することではない。プリンターを買うと2000円、インクパックを一個買うと2500円、二個買うと3000円のキャッシュバックがあることを言うのが目的である。しかし、それは些末な問題に過ぎない。どちらにせよ、そんな存在はこの世に存在しないからである。

足が震えている。社員がこちらを見ている。正確には、「見ているような気がした」。
私は何とか声を発している。レイアウトされたプリンターの裏に立てかけた資料を見続けている。
「今、こちらのプリンターの購入がお買い得です。ディーゼットエルピーハチゼロゼロイチ。ディーゼットエルピーハチゼロゼロサ、ヨン。ディーゼットエルピーキューゼロゼロイチをお買い上げいただくと2000円のキャッシュバック。インクパックのツーアイエムエムも同時購入で、なんと2500円のキャッシュバック。更にインクパックを二個お買い上げで、なんとなんと3000円のキャッシュバックです。この機会に是非、お求めください。」
一度も店内を見渡すこと無く言い切った。声の大きさだけは他のコンパニオンに負けていなかった。
「今、こちらのプリンターの購入がお買い得です!ディーゼットエルピーハチゼロゼロイチ。ディーゼットエルピーハチゼロゼロヨン。ディーゼットエルピーハチ、キューゼロゼロイチをお買い上げいただくと2000円のキャッシュバック!インクパックのツーアイエムエムも同時購入で、なんと!2500円のキャッシュバック!更にインクパックを二個お買い上げで、なんと、なんと!3000円のキャッシュバックです!この機会に是非、お求めください!」
今私にできることは大きな声を出すことだけだった。客は誰も私を見ていなかった。
「今、こちらのプリンターの購入がお買い得です!ディーゼットエルピーハチゼロゼロイチ。ディーゼットエルピーハチゼロゼロヨン。ディーゼットエルピーキューゼロゼロイチをお買い上げいただくと2000円のキャッシュバック!インクパックのツーアイエムエムも同時購入で、なんと!2500円のキャッシュバック!更にインクパックを二個お買い上げで、なんと、なんと、なんと!3000円のキャッシュバックです!この機会に是非、お求めください!」
最後の「なんと」を資料より一個多く言った。そのことで遠くから見ているであろう社員に、私のやる気を伝えたかった。しかし、合計4回も言っている「なんと」のその全てが、どれもまったく同じトーンだった。一切の抑揚が、そこにはなかった。
資料を見ている傍目に、立ち止まる客の姿が見えた。グレーのパーカーにカーキのチノパンを履いていた。チノパンの裾が、少しほつれていた。顔は見れなかった。私は怖くなった。その客が私をどう解釈しようとしているのか不安になった。私がディーゼットエルピーキューゼロゼロイチと言い終わるくらいに、客は足早に去っていった。
私はその去っていった客に聞こえるよう、少しだけ声を大きくして言った。
「なんと、なんと、なんと、なんと、なんと、」





僕は居た堪れない気持ちで店を出た。池袋駅へ向かうと、街宣車が止まっていた。
「…様は私達の父でございます。皆様が今の自分を変えたいと思うなら、是非私達の経典を読んでください」
品の良さそうなおばあさまが、マイクを握って通行人一人ひとりに訴えかけていた。周囲のビラ配りのおばあさま方も、しっかりと私達の目を見ていた。百貨店の壁によりかかったホームレスが、うつろな目でその演説者を見ていた。

日が暮れてきた。春分の日ではあるが、夜は冷え込む。コートを着てくればよかったなと僕は思った。